「新しい学力」(非認知能力)は親にしか育てることができない
- ヒロユキ先生
- 2024年7月9日
- 読了時間: 8分
更新日:2024年7月19日
子どもの教育を担う場所というと、学校や塾が思い浮かびます。しかし、結論からいうと、学校や塾では「新しい学力」を育てることはできません。なぜなら、学校や塾というシステム自体が、「新しい学力」の育成に向いていないからです。
では、「誰」が「どこ」で育てるのでしょうか。それは、「親」が「家庭」で育てるのです。そもそも自主性などといった「学力」というよりも、「人間性」に近いようなものをどうやって育てるのでしょうか。それを理解するために、まず「子どもが『新しい学力』を身につけるのはどのようなときか」を考えてみましょう。
ある日、お母さんに急用ができて、帰宅時刻が遅くなったとします。そのとき、留守番を頼んでおいた子どもが、夕食のご飯を炊いておいてくれました。
この場面には、子どもが「新しい学力」を身につける機会がたくさん含まれています。
例えばこの場面で、お母さんが「ありがとう。とても助かったわ」と子どもに感謝の気持ちを伝えたとします。すると子どもは、家族としての役割を果たしたことを褒められ、認められたので、この体験を通して、奉仕の精神や協調性を身につけていきます。
あるいは、「一人でできてすごいね!」と声をかけたとします。すると子どもは、炊飯の技能を褒められ、認められたので、家事の技能に対する自信を深めていきます。
また、「自分で考えて、ご飯を炊いておいてくれたんだね」と声をかけたとします。すると子どもは、自ら考えて行動したことを褒められ、認められたので、自主性やチャレンジ精神を身につけていくのです。
奉仕の精神や協調性、自信も、自主性やチャレンジ精神も、すべて「新しい学力」です。このように、「新しい学力」は、子どもの「行動」とそれに対する「周囲の反応」によって育ちます。この非常に繊細な営みを、子ども一人ひとりに寄り添い、計画的・選択的に行うことができるのは、親しかいません。学校の教師も、塾の講師も、家庭教師も、ここまで繊細な行為はできないのです。

でも、自主性や協調性といったものは、学校の集団生活の中でこそ、身につくものなのではないの?
そう考えた人もいるでしょう。人間の成長・発達に理解がある人だと思います。
私も、学校が人間性の成長に重要な役割を果たしていることは否定しません。ただし、それは「集団において」という条件付きのものです。
教師も自らが担任する子どもたちに対して、自主性や協調性、責任感といったさまざまな能力が身につくように働きかけをします。実際、教師の働きかけに応えて、自主性を発揮するようになる子、協調性を身につける子、責任感を強くする子が現れます。
でもこれは、「新しい学力」の指導とは呼べません。なぜでしょうか?
それは「自主性を発揮するようになる子」が、あなたの子どもとは限らないからです。親が自主性を身につけてほしいと願っていても、身につくかどうかは運次第。たとえ子どもに「自主性を身につけるようにがんばりなさい」と声をかけたとしても、クラスの中にあなたの子どもより自主性の発揮に優れた子どもがいれば、あなたの子どもに自主性を働かせる出番は回ってきません。
私たちはいま、一流大合格のために、自分の子どもに、計画的・選択的に「新しい学力」を身につけさせる方法を考えています。学校での指導はあなたの子どもにとって、計画的でも選択的でもありません。運と環境に左右され、指導の結果が制御不能なのです。したがって、学校では「新しい学力」を育てることはできない、ということになります。
次に、塾について考えてみましょう。
学校は、「早寝・早起き・朝ご飯」などのスローガンを使って、「子どもの生活リズムを整えてください」などと依頼してきます。これは明らかに個人の家庭生活に指示を出すものです。それは、子どもの人間性の育成にコミットしようとする意志の表れです。
いっぽう塾は、決してそのようなことはしません。たとえ生徒が夜遅くまでスマホをいじっていて、塾の宿題がおろそかになっていたとしても、家庭生活には口出ししません。
宿題をしないなら、塾で習ったことが定着しないだけであり、授業についてこられなくなるだけ。宿題をするかしないか、授業を有意義なものにするかしないかは、生徒や家庭の問題であり、塾の問題ではない、というのが基本姿勢です。
つまり、そもそも塾は「新しい学力」を身につけることに関心がないのです。暗記や計算といった、従来型の学力をどれだけ効率的に身につけさせるか、そこに特化した組織なのです。
では、予備校はどうでしょうか?
「新しい学力」対策として、各大学の過去問に取り組んでいます。しかしこれも、「新しい学力」を育てようとしているわけではありません。
まず、生徒になにがしかの活動をさせ、そこで得た経験に対して、講師が「新しい学力」に対応した意味づけを行う、などということはありません。そんなことを生徒一人ひとりにしていたら、教えるべき学習範囲が終わらず、入試に間に合いません。「新しい学力」対策として行われているのは、せいぜい過去問演習くらいです。つまり、予備校もそもそも「新しい学力」に関心がないのです。「新しい学力」が問われる問題パターンを、効率的に暗記させようとしているだけです。したがって、塾や予備校でも「新しい学力」を育てることはできない、ということになります。

そうはいっても、文部科学省が定めた学習指導要領には、「新しい学力」を指す内容が盛り込まれているし、実際に学校でも「アクティブ・ラーニング」が行われるようになっているのでは? そう思った方もいるでしょう。
確かにいまは、小中高において「指示されたことを従順に、勤勉に」学ぶスタイルから、課題に対して「自ら効果的な対策を考え、実行する」学習スタイルへと変わりつつあります。それを象徴するのがアクティブ・ラーニングになるわけですが、残念ながらアクティブ・ラーニングに対する考え方は、教師によって非常に温度差があります。
「アクティブ・ラーニング」という言葉が教育界に広がったのは、ここ5年ほどのことです。ですが、それよりももっと以前の2000年前後から、「アクティブ・ラーニング」という言葉こそ使われていなかったけれど、教師の授業研究の国際比較を行っている東京大学の佐藤学教授が、ご自身の本の中で「アクティブ・ラーニング」のことを指していると思われる授業構想や授業のやり方を紹介していました。授業研究に熱心な教師は、20年以上前からこうした授業を意識していたのです。私自身も以前からアクティブ・ラーニングの重要性を感じ、教科によっては取り入れてみることもありました。
しかし、そうやって積極的に取り入れていこうとする教師がいるいっぽうで、できればいままでのままの授業スタイルを続けたいと考える教師も大勢います。そのほうが断然授業は進めやすいからです。
アクティブ・ラーニングは指導者の力量がものをいう授業です。人間観や学習理想、人間がものを学んでいくときにどのような過程をたどるかなどの教養を含めた部分を指導者(学校では教師)がどれだけもっているかというところに非常に左右されます。
アクティブ・ラーニングというと、子どもたちが自分の感じたことや意見を好きなように発言する場、というイメージが強いと思いますが、ただ言いたいことをいうだけでは収拾がつかなくなります。
そこで指導者が、「Aさんの話とBさんの話をつなげてみたら、もっといろいろな視点が見えてきそうだな」とか、「CさんとDさんの話を対比させてみたら、子どもたちがもっとよく理解できるのではないか」とか、人類が積み上げてきた知的な遺産といまここにいる子どもたちが話していることがどのようにつながるのかなどを考えながらコーディネートする能力が必要になります。つまり、指導者側の教養の高さや、その場を活性化させるテクニックが求められるのです。
しかし、こうした技術はすぐに身につくものではありません。まして、教師自身も子ども時代に経験したことのない授業を行うのですから、何が正解なのかもわからない。新しい取り組みに対して、自信が持てないという人がいてもうなずけます。つまり、いまの教師の力量では、効果的なアクティブ・ラーニングは期待できないというのが現実なのです。
そもそも学校という場所は、クラス全体を指導することがいちばんの目的になっています。授業のスタイルを一斉授業から「アクティブ・ラーニング風」に変えてみたところで、授業時間は終わりが決まっているし、生徒全員の声を拾うことなど到底できません。できるだけ多くの生徒に身についてくれればいいという考えで行っているので、その効果が出る子もいますが、そうでない子も多数出てきてしまうのです。ですから、何か目標なりゴールがあって、そこに向けて子どもにしっかりと力をつけていきたいとなれば、やはり1対1で見ることができる「親」が適任だと考えます。
くり返しになりますが、「新しい学力」を育てるのは、非常に繊細で、個別的な営みです。それができるのは、いつも子どものそばにいる「親」が「家庭で」行っていくしかないのです。
メールからご連絡いただければ、「新しい学力」づくりや子育て習慣、親子関係の在り方についてアドバイスや実行支援をいたしますので、お気軽にお知らせください。
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